「愛と恋のちがいってなんだと思う?」
思春期まっさかりの少年少女だったころからだいぶ遠いところまで来たわれわれにとっても、ふと立ち止って考えることのある問いかけです。たわむれにインターネットで「愛、恋」と検索するだけでさまざまな回答例を目にすることができました。
曰く「恋は自分本位、愛は相手本位」
曰く「『愛』は中心に心があるから真心、『恋』は下に心があるから下心」
曰く「恋は花火、愛はろうそくの火」
曰く「愛は与えるもの、恋は奪うもの」
曰く「恋が時間を経て愛に変る」
曰く・・・
まじめなもの、皮肉っぽいもの、気の利いたもの、スタンスはさまざまですが、どのテーゼにもなるほどとうなずけるところがあります。恥ずかしながらわたしも以前、偶然ひとつのテーゼのように読めてしまう回文を作ったことがあります。
「憩う愛、酔い合う恋」
逆から読んでも「いこうあいよいあうこい」
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こうしていくつか見ただけでも、多くの人が「愛」と「恋」には明確な違いがあるのをみとめているのがわかりますし、二者を分離する基準は多様ながら一定の共通性がうかがえます。
「恋」の説明には「主観的、利己的、卑俗」といったパーソナルでバルネラブルな属性を強調し、「愛」の説明として「観念的、利他的、高尚」といったユニバーサルでパーマネントなイメージを対置するというのがひとつの傾向としてうかがえます。その結果「愛」→「恋」の順で説明するときは「恋」がオチになりますし、「恋」→「愛」の順のばあいにはいわゆる「サゲてアゲる」というレトリックが多く用いられています。
こうした傾向は「愛」と「恋」というふたつの日本語についてのある興味深い事実と関連していると思っておりますが、いまのところはっきりそれに言及した主張を見かけないので、ここでご紹介します。その事実とは、
「『愛』は音読みであり『恋』は訓読みである」ということです。
それがどないしたんや。
「音読み」は漢字が中国大陸から導入されたときに、当時の中国語の音をそのまま、またはそれに近い当時の日本語の音を当てて読んだものです。対して「訓読み」はその漢字の中国語読みとは無関係に、その漢字の意味に相当する日本固有のことば(和語)の読みを無理やり当てたものです。
いま仮にアルファベットで同じことをしてみます。「carry」と書いて「キャリー」と読み、「運搬」を意味するのが「音読み」に相当し、これは普通の外来語のあつかいと変りませんが、訓読みでは「carryぶ」と書いて「はこぶ」などと読むことになります。いびつです。無茶もいいとこです。
もっとも、こうした文化は文字を持たなかった日本人が漢文を読む手助けとして送り仮名(カタカナ)が発明された事情を経ていますし、仮名そのものが漢字(万葉仮名)をもとに作られたものですから、アルファベットで同列に考えるのはナンセンスです。それなら「carry bu」とローマ字読みとまぜこぜにして「はこぶ」と読むのはどうでしょう。
妄想はともかく、音読みに比べて訓読みは大胆な方法だということは異論のないところだと思います。漢字の導入につづくカタカナひらがなの発明を経て現在の漢字仮名まじり文にいたり、日本語はたいへんゆたかな広がりをもつことができたのですが、功あれば罪あり、ひずみもまた現在に残っています。
小学校6年生のとき中学受験をしたのです。唐突な思い出話。国語漢字頻出問題として必ず紹介される選択問題に「はかる」とか「おさめる」があります。
「はかる」 長さなら「測る」
重さなら「量る」
時間なら「計る」
工夫なら「図る」
計略なら「謀る」
相談なら「諮る」
「おさめる」学業なら「修める」
治安なら「治める」
税金なら「納める」
利益なら「収める」
なんじゃこりゃ。
当時の感想ですが、小学6年といえばロリエもびっくりの吸収力ですので難なく覚えました。いまではだいぶあやしいもので、家賃は「収める」のか「納める」のか自信がないのでひらがなで書いています。
和語においては「はかる」も「おさめる」もそれぞれひとつのことばでした。ところが漢字に和語を当てていったら1対1に対応しなかったものだから、しばしばまったく意味の異なる漢字に同じ和語を当てることになりました。これらはそのときの鬼子です。
「はかる」は「未知、不可視、将来のものごとに対して、明らかにしようとしたり何らかのはたらきかけをしたりする」という意味だったのでしょう。「おさめる」は「本来あるべきところ、あるべき姿、正しい形、望ましいあり方に、ものごとを収容する」という意味でしょう。ところが用例に応じて別々の漢字を当ててしまったため、(というか、用法のちがう漢字に同じ和語をあててしまったため)、意味が細分化されて和語本来の意味の広がりを失ってしまいました。ただし、これらふたつの語はまだもとの意味の名残をとどめているほうです。
別々の漢字が意味範囲を分担した結果、もはや完全に無関係のものどうしとしか認識されなくなった例に「かく」という動詞があります。
「文字を書く」「精彩を欠く」「背中を掻く」「寝首をかく」いずれももとは「削り取るしぐさ」をあらわすひとつの和語だったものです。ほかに「いびきをかく」「あせをかく」「恥をかく」などもありますが、こちらはすべて「身にまとうようす」をあらわす点で共通しています。「削り取る」グループと「身にまとう」グループは関連がないようにも見えますが、中国文学研究かの高島俊男せんせいは、どちらも「手を自分のほうに払うように引き寄せる動作」に由来するものだろうとおっしゃっています。猫が前足で砂を「かく」ようすなどを想像すると「削り取る」と「身にまとう」の共通点に納得しやすいかもしれません。
長谷治郎 Unknown Country
話を戻します。
「恋(こい)」は訓読みです。より分析的にいうと動詞「こう(こふ)」の連用形です。日本語では動詞を名詞化するときに連用形を用います。英語のto不定詞や動名詞、または従事者をあらわす接尾語の-er,-orに相当するはたらきを、日本語では連用形が担っています。「よろこぶ」の名詞形は「よろこび」、「ひかる」の名詞形は「ひかり」、自分に都合よく立場や意見を変えること、またそうする人は「ひよりみ」、天城山を越えようとする試み、またそうする人は「あまぎごえ」。つまり「こひ」は「こふ」の連用形であり、「こふこと、こふひと」をあらわしたはずです。
「こふ」は「恋ふ」と書きますが、ほかにも「請ふ」「乞ふ」の漢字が当てられた語があります。ここからは仮説ですが、これらはもとは同じひとつの意味だったのではないでしょうか。意味は容易に想像できます。「いま自分のものでないものを求める、手に入れたいと願う」ということです。
ところがひとつ問題があります。「恋ふ」は上二段活用、「請ふ」「乞ふ」は四段活用なのです。あれれ。ということはやっぱり別のことばかしら。しかしあきらめてはなりません。先ほどの「かく」の例をふたたび見てみましょう。
先にあげた「かく」はすべて四段活用他動詞ですが、「かく」には下二段活用他動詞「掛く」「懸く」もあります。現代語なら「掛ける」「懸ける」「賭ける」「架ける」などです。これらはみな「なにかを対象の身にまとわせる(→こちらと向うをつなぐ)」という意味で共通しています。「(なにかを)自ら身にまとう」のが四段「かく」で「(なにかを)相手の身にまとわせる」のが下二段「かく」だとすれば、文法が異なるからといって由来も別だとは言い切れないのではないでしょうか。「いま手元にないものをもとめる」点は共通して、心の中で慕うのが上二段「こふ」となり、具体的にもとめる動作をあらわすのが四段「こふ」になったというのが仮説の骨子です。
もし仮説どおり上二段「こふ」と四段「こふ」が同じ由来だったとしても、その分離はおそらく漢字到来より古いでしょう。すると漢字が導入されたときにはすでに別々の意味の和語として認識されていたわけで、この点については漢字にも訓読みにも何ら非はないということになります。先の「はかる」「おさめる」の話とはずいぶん事情がちがいますね・・・
仮説の真偽はどうであれ、「こひ」が「いまここにないものをもとめる気持ち」であることは国語上の事実です。いくつものテーゼに共通していた「主観的、利己的、卑俗」な属性はここに由来しています。原義にしたがえば手に入れたが最後「恋」は終ります。いい大人がいつまでも「恋人みたいな夫婦でいたいね」って、「痛いね」の書きまちがいじゃないのかと思うあなたは正しかったのです。思ってませんか。わたしだけですか。すみません。
「ねえ、『愛』はどこへいったの?」
すみません。忘れてました。またこのつぎに。
長谷治郎:
1974年 神奈川県生れ
1997年 京都大学理学部卒
2011年 国民文化祭美術展京都市教育委員会教育長賞
2012年 関西独立展関西独立賞(同14年、15年)
2013年 独立展新人賞
現在 独立美術協会会友
作品
https://www.flickr.com/photos/hsjr0208/
Sante 2015年6月2日(火)~14日(日)(月曜休館)
アートコンプレックスセンター(The Artcomplex Center of Tokyo)
http://www.gallerycomplex.com/