• News
  • About Lessons
  • About
  • Archives
  • Bells and Whistles
  • Contact

「ねえ、『愛』はどこへいったの?」

 ずいぶん間があいてしまいました。でも「愛」はいつもそこにありました。ただ時として見えにくいだけなのです。

 

 前回の話をざっとまとめれば、「恋(こい)」は訓読み、すなわち和語であり、その意味は動詞「こふ」に由来し、「いまここにないものをもとめる気持ち」だということでした。つまり2行で要約できたのです。おそらく今回も2行ていどの中身しかないと思いますが、数十倍の体積に見せかけてお届けします。綿菓子やホイップクリームのごときものと思っていただければさいわいです。甘い甘い愛のおはなし。

 

だから「愛」がわからない

 「愛(あい)」は音読みです。すなわち中国語の音を日本語に導入したものです。実際には音だけでなく、その概念ごと漢語から導入しました。

 文字や記号を木片や紙に記入する動作を漢字では「書」の文字で表しますが、ご先祖さまはそこに、「けずりとるしぐさ」をあらわす動詞「かく」をあてて、「書く」という訓読み表記を発明したのでした。ところが、文字のなかった昔の日本には、「書かれた文字」や「文字を記して通信伝達する木片・紙片」をあらわすことばがなかったことでしょう。もちろん、文字はなくても何がしかの記号や図像は使われていたでしょうし、それを刻印する動作はすでに「かく」と発音していたかもしれません。ただ、刻印されたもののほうはどのような和語で表していたのでしょう。もしかしたら連用形「かき」だったかもしれませんし、わたしの知らない和語で表されていたのかもしれません。しかしいずれにせよ、文字によって膨大な意味内容を保存伝達する書物や書簡のたぐいはなかったので、当然ながらそこには相当する和語も存在せず、中国語の読みをそのまま拝借して、「書(ショ)」という音読みで対応しました。

 ほかにも、「礼(レイ)」とか「楽(ガク)」とか「経(キャウ)」など、音読みのまま定着した語は、そもそも和語に存在しなかった概念を音ごと導入したものであり、「愛」もまたこのグループに入ります。

 

 余談ながら「書」に相当する和語に「文(ふみ)」があるとのご指摘についてですが(誰も指摘してませんか)、こちらは漢語「文(フン)」(当時の発音では再現すれば「プン」でしょうか)が「ふに」(同じく発音は「ぷに」ですかね)になり、さらに「ふみ」に変化して和語として定着したというのが通説です。伝統的に撥音「ン」の発声が苦手な日本人が後ろに母音iをくっつけて発音しやすくするのも、子音nとmが入れ替わるのもよくあることだったようで、同様のことが文字を記した木片をあらわす「簡(クヮン)」が「かに」を経て「紙(かみ)」にいたる過程でも起こっています。

 

 ともあれ、「愛」はそもそも和語に存在しなかった概念だったのです。はじめこの駄文を書き出した段階では、「『愛』はそもそも和語になかった概念であり、だから日本人には『愛』がよくわからないのだ」と結論づけるつもりでした。書いているうちに、さすがにそれはむちゃくちゃだろうと思い直したものの、いまのところ適当な落ち着き場所は見あたっておりません。

 毒食らわば皿まで。迷走するならトコトン迷走を楽しみましょう。

 

さまざまな「愛」のかたち

 「愛(アイ)」は音読み語として定着しただけでなく、訓読みがいくつもあります。「愛しい(いとしい・いとし)」「愛でる(めでる・めづ)」、いまでは使われませんが、「愛し(かなし)(をし)」などもあります。「愛し(かなし)」は「悲し」とも書き、「大切に思う、かわいく思う」なら前者、「悲嘆、残念、気の毒」の意では後者を用いると辞書にはありますが、もちろんもとは同じひとつの和語であり、「失って悲しい、心残りだ(→心ひかれる、大切だ)」というところに原義があります。「をし」も同様で、「愛し」「惜し」の使い分けはあっても、原義は「もったいない、失うことを恐れる(→大切だ)」でしょう。

 興味深いのは「いとし」で、「いと・をし(とてももったいない)」あたりから来たものかと思っていたら、「いとふ」(厭う)の形容詞形「いとはし」(厭わしい)から、「いとほし」(苦痛に思う、他人を不憫に思う)を経て「いとし」(不憫に思う、かわいい)になったという説が有力です。途中で「いたはし」(労しい、苦労を伴う→大事にしたい→他人の苦痛を気にかける)との混淆によって「自分の苦痛」から「他人の苦痛への同情」に意味が広がったもののようです。それにしても、まさか「愛しい」が「厭う」から派生していたとは。「嫌よ嫌よも好きのうち」という、数ある俗諺のなかでも唾棄すべき筆頭にある戯れ言がありますが、語源の暗示するところによれば「好きよ好きよも嫌のうち」のほうが正しいのかもしれません。

 

 

14159973130_d4eee5a31d_k

 長谷治郎 Roses

 

 

 話を戻します。

 『新明解古語辞典』によると「いとほし」が「かわいい」の意を持つようになったのは室町以降とのことで、「いとほし」に特に「愛」の字があてられることはなかったようです。語形が「いとし」になったのは江戸期だそうで、ようやく「愛」の字があてられるようになりました。ですから「愛」の字が「他人の苦痛への同情」の意を含んでいると考えるのは、少々無理があるようです。「かわいい」の意がじゅうぶん定着してはじめて「愛」の字が当てられるようになったので、発想としては「愛でる(めでる・めづ)」や「愛し(かなし)」に通じるものです。これら訓読み語の「愛」の字に共通して託された意味は「失うと悲しい、失いたくないと切実に思う気持ち→弱いもの、壊れやすいものを大切に思う」であると推測するのが妥当なところでしょう。

 

 するとどうでしょう。前掲のとおり「恋」が「いまここにないものをもとめる気持ち」なのに対し、「愛」が「いまここにあるものを失いたくない気持ち」であるとすると、絵に描いたようなみごとな対比が浮かび上がってくるではありませんか。うっかりこれでめでたしめでたしと結論づけたくなります。(「めでたし」は「めづ」の派生語でもあることですし・・・)

 

 ところが、です。上の考察は訓読みに際して「愛」の字がどのような基準で採用されたかを示すものに過ぎず、音読みで用いられる名詞「愛」の意味を直接示しているわけではありません。いわば状況証拠です。じっさいのところ、音読み名詞「愛」はそのような対比の枠でとらえきれるものではないのです。

 

 名詞「愛(アイ)」が音読みのまま導入されたのは、それに相当する和語がなかったからでした。現に、すでに見た「愛」の訓読みはすべて用言ばかりです。

 「恋(こい・こひ)」が動詞「こふ」の連用形に由来したように、「愛」にも動詞「めづ」の連用形名詞「めで」として成長するチャンスがあったはずです。実際「愛づ(めづ)」は隆盛を誇った動詞であり、「めづらし」「めでたし」など、現代でも広く浸透する派生語を生んでいます。しかし名詞「めで」は存在はしたものの広く使われることなく衰退しました。現代語「愛でる」ですら、使われはしていますが、派生語「めずらしい」「めでたい」に比べるとその衰えは隠せません。「かなしい」「おしい」は意味範囲も表記も「悲しい」「惜しい」に独占されて「愛」の字は過去のものとなり、訓読み勢力はせいぜい遅れてやってきた「愛しい」が健闘しているのみです。それに対して、音読み「愛」のほうはわが世の春といわんばかりのはびこりようです。これはどうしたことでしょう。

 実は「愛」にはもうひとつ用言があります。「愛する(愛す)」です。

 

もうひとつの「愛」のかたち

 昔の日本人が漢字を日本語に取り入れたときに、訓読みのほかにやってのけたウルトラCが、「漢語+サ変動詞『する(す)』」の発明です。すでにこの文章の中でも、「記入する」「拝借する」「迷走する」「暗示する」「推測する」「採用する」「独占する」など用いていますが、多くは近世以降に作られた和製漢語を動詞化したものですし、実態は「記入をする」の「を」を省略しただけとみなすこともできます。

 しかし、「単漢字+する(す)」のかたちのものは、由来も古く、「を」を挿入できないものが多くあります。この文章の中でも、「通じる(通ず)」「託す」などを使っていますが、ほかに「拝す」「辞す」「感ず」「達す」「案ず」などがあり、「愛す」もこの仲間に入ります。もとはサ変でも、現代語では上一段活用「通じる」「感じる」「案じる」、五段活用「託す」などと変化しているものもあります。「愛する」は「愛する・愛するとき・愛すれば」だとサ変、「愛す・愛すとき・愛せば」だと五段といったように、けっこういいかげんな運用がなされています。いずれにせよこのような変化は、堅苦しい「漢語+サ変」がより平易な活用になって「和語化した」とみなすことができます。それだけ由緒ある表現だということかもしれません。

 

 『全訳読解古語辞典』によると、「愛す」の語義は大きく5つ、

① かわいがる。あいする。

② 愛好する。愛玩する。

③ 執着する。愛着する。

④ 愛撫する。愛しあう。

⑤ 相手をする。適当にあしらう。あやす。

とのことで、親切なことに「漢籍系の『愛』は『恵、親、寵、慕、好、仁』に通じ、今日と同じくプラスの語感を有する。仏典系の『愛』は十二因縁のひとつで、『執・貪・染』など執着、執念に通じ、マイナスの語感を有する。」と補注があり、とりわけ③に、「マイナスの語感」があることに注意を促しています。

 

  ここでひとつ気づくことがあります。上の「愛す」の語義を、前の訓読み勢力と比べてみると、訓読みサイドの「失いたくないと切実に思う、壊れやすいものを大切に思う」という意味からことさらに「切実さ」が薄れていて、意味が平板になっているのです。ポジティブにもネガティブにも、訓読み勢力に見られる「うつろいやすいものへの郷愁、もののあはれ」が「愛す」には感じられず、よりニュートラルな表情をしています。これはやはり和語と漢語の語感のちがいによるものなのでしょうか。そうだとするとなおさら、音読み「愛」と訓読み勢力は分けて考える必要がありそうです。

 

 ごめんなさい。力尽きました。つづきはまたこんど。舞台は(たぶん)近代へ・・・

 

 

長谷治郎:

1974年 神奈川県生れ

1997年 京都大学理学部卒

2011年 国民文化祭美術展京都市教育委員会教育長賞

2012年 関西独立展関西独立賞(同14年、15年)

2013年 独立展新人賞

2015年 独立展奨励賞

個展 2015年12月4日(金)〜10日(木)

   銀座かわうそ画廊

現在 独立美術協会会友

作品

https://www.flickr.com/photos/hsjr0208/

第83回独立展

独立展